水底
父親に呼ばれたのは深夜だった。
小龍が呼ばれた場所に行くと、先に来ていた父親が神棚の前で正座をしていた。
「お呼びですか」
「うむ、そこへ」
促された場所に素直に座る。蝋燭の火が風で揺れた。
「項羽が帰ってきた。わかっておるな」
「はい」
「お前は項羽の影だ。わきまえておるな」
「はい」
小龍が静かに頭を下げたまま答える。
お前は項羽の影だと、子どもの頃からもう何万回もきかされた。
今更、父親に繰り返して念を押されるほどのことではない。
「それがわかっていればよい」
父親が懐から何か光るものを抜く。懐刀だ。
「あれの顔についたのと同じ傷をお前にもつける。よいな」
「…はい」
ああそうか、と小龍はどこかで思う。
俺たちの区別がついてはいけないのだと。
顔を上げると、父親の血走った目が見えた。
手が震えている。
いっそこのまま刺してくれてもいいのだが、とぼんやり思う。
項羽が帰ってきたのだから、自分の仕事はもう終わったのだ。
霧風がいやがるだろうな。
ふとそんなことが胸をよぎる。
小次郎は、どんな顔をするだろうか。
まあでも仕方ないか、と静かに目を閉じた。
目を開けたままだとさすがの親父もやりにくいだろう。
「…馬鹿親父」
顔に生暖かいものが落ちた。 血だ。
刀が降りおろされる前にその刀の切っ先を握る兄の姿が小龍の前にあった。
「兄貴」
「お前も素直にこのキチガイの前に座ってんじゃねえよ」
父親の刀の切っ先を項羽が握っている。
血は、兄の左手から流れていた。
「わしは、お前のことを思って…」
「頼んでねえよ」
父親が刀を取り落とし、力なく座り込む。
急に何歳も老け込んだ様子に、小龍は思わず兄を押しのけて父親の肩を抱いた。
「この傷は俺が負けて、俺が負ったもんだ。小龍には関係ない」
父親を見下ろすようにして項羽が冷たい声で言い放つ。
「小龍を傷つけるものは、俺が許さん」
「それがたとえ、父親であってもだ」
兄が、弟の体を父親から引きはがす。
「兄貴…、手」
「たいしたことない」
左は兄の利き手だ。
「俺のいない間の羽根屋敷の動きは小龍からすべて聞いている。書類関係もほとんど目を通した」
「…むうう…」
「隠居しろ、じじい」
「兄貴」
「俺が帰ってきたからには、貴様の自由にはさせない」
「…項羽…」
「小龍を傷つけるようなマネをしてみろ、次は殺す」
何を言うのだ、と兄の顔を見る小龍に、項羽は今までの調子とはうってかわってひどく優しい表情でほほえんだ。
「行くぞ」
このままだと兄は本気でいつか父親を殺すのではないかと、小龍は思う。
水底で何かが蠢く予感が走る。
まだそれは鈍く漠然としたものだったのだけれど。
今、キチガイって言葉使っちゃ駄目なんですよね(苦笑)ネットだからいいか。
最初から書きたかった話。
最初から、羽根親父が息子の顔に傷をつけようとする絵が浮かんでいました。
当初は止めに入るのは霧だったんですが、どうも無理があるので項小で。