蜘蛛
上がっていくエレベーターの中で、項羽が少し伸び上がるようにしてキスをした。
嫌ならつきとばせばいい、と彼は言ったが、そんなことできるわけなくて、小柄な背中に手を回して抱きしめてしまう。黒い瞳の奥が笑う。耐えられずに目を閉じると、舌が差し込まれた。
「…10階」
エレベーターの止まる気配に壬生は体を引いた。なんでこんなことになったのか、自分でもよくわからない。ほんの30分前までは普通に食事をしていたのだ。
「なにしてんだ、降りるぞ」
手を引かれて、しぶしぶ降りる。ビジネスホテルは変に清潔で、かえって何かにふさわしかった。
「えーと、こっちか、1070…」
どれも同じような入り口の中から一つの部屋を見つけると、カードキーを差し込んで、項羽が扉を開けた。開けてしまった、壬生は自分がこれからどうなるのか、漠然とした不安を覚えていた。恐怖にも似ていたし、それ以外の何かにも似ていた。今日の自分はどうかしている、とも思う。普段ならこんな得体のしれない相手に付いてくることはありえないだろう。ましてや、こんなあからさまな誘いを受けて、罠とわかっていて踏み込むようなマネを、今まで一度だってしたことはない。
ぱたん、と秘密の音がして扉が閉まる。カチャリと小さな音がしてオートロックがかかった。大きめのベッドが一つ、あとは小さい机と申し訳程度の照明と、窓にはカーテン。
「…なんか、それだけのためって感じの、部屋だな」
ふっと息をついて壬生がつぶやく。
「それだけの部屋だもんな」
あっさりと答えて項羽が上着を脱ぐ。
「目的遂行のためには簡潔で、こーいう方が俺は好きだけど。ちゃらちゃらした部屋って、女は喜ぶけど、お前もそーいう方が好き?」
「ちゃらちゃらした部屋って」
「あるじゃん、鏡張りだったりベッドまわったりするのだったり」
「そんな部屋使ってんのか普段は」
「相手によるね」
じゃあ俺はこのビジネスホテルみたいな相手なのか、などと壬生はぼんやりと思う。窓辺に腰掛けてみると、カーテン越しにきらびやかな夜景が見えた。
「…高いな」
めまいがする。
「10階だからなあ」
のんきに項羽が言う。
「先にシャワー浴びてくる。俺今日結構あちこち飛び歩いていたんだった」
すぐ隣のユニットバスの扉が閉まる。壬生は思わず引き留められずに見送ってしまった。
「……」
所在なく備え付けの小さなテレビを付けてみるが、落ち着かない。コメディアンが何か画面を走り回っていたが、壬生の頭には入ってこない。じきにシャワー室から項羽が出てきた。
「次どうぞ」
濡れた髪の項羽が羽織っているのはホテル備え付けの浴衣で、藍色の模様が不似合いな感じがする。
「早く入ったら?」
項羽に言われて、壬生はのろのろと腰を上げた。
からみとられて、逃げ出す事が出来ない。
ユニットバスから出ると、部屋の照明は落とされていた。
「…暗い」
「夜だから」
項羽はベッドの上に腹這いになって足をぶらぶらさせている。
テレビではまだ芸人が転げ回っている。空々しい笑い声がテレビから流れてくる。
「どする?」
ベッドに腰掛けた壬生に、項羽が手を伸ばす。温かい手だった。
どうするっていったって、この場でじゃあ帰ると言えるはずもなかった。
どうにでもなれ、と壬生が目を閉じる。
項羽が細めた瞳を見ないですむように。
(20060419)
こないだも女性の口説き方の本を暇つぶしに立ち読みしていたら、寝たい相手はホテルに連れ込んだらちょっと休んで(いきなり押し倒すのはタブーですって。いかにもそれだけの為って感じがするでしょ?)、お風呂にいれちゃうのがいいって書いてありました。お風呂に入ってから逃げる女性ってほとんどいないらしいですよ(笑)ああ、ここに書いても役にたたない!(爆)
あ、ちなみにエレベーターの中でキスは正解らしいですよ。
(up:20060618父の日。)
目眩(眩暈・めまい)というタイトルとも悩んだのですが、夏の季語で統一しようかなあということで、蜘蛛。
蜘蛛の巣状の白羽陣のイメージ。
とらえられたら、逃げられないの。
2006/06/18(Sun) 11:48