萌黄

巻の4 萌黄 

「すっげえ、あいつ完全制覇」
 劉鵬が口笛を吹いた。

 長距離走、短距離走、重量上げ、跳躍競技と、ひとつ下の学年ではすべての種目で項羽の弟が1位の記録をたたき出していたのである。

 項羽の弟は二年ほど他の里に出されていた。この春から風魔の里に帰ってきていたばかりでこの成績は非常に目を引くものだった。

「こりゃあ、雷炎が燃えるわけだ」
「雷炎って、この2位か3位にいる子ですか?」
「そう。去年まではこいつがだいたい一位だったんだけどさ」
張り出された表を見ながら、劉鵬がしきりに関心する。


 霧風たちの学年では、長距離走はたいてい霧風が首席で、項羽は短距離走と跳躍種目、重量系では誰も劉鵬に最初から勝てないと決まっているので、それぞれがエキスパート化していた。

 
「あ、でも去年の俺の記録は抜かれていない!よしよし」
劉鵬がのんきな声を上げる。
「あなたの記録は、簡単には抜かれないでしょう」
霧風が思わず笑いながら言ったが、ふと自分の去年の記録を思い出して、しばらくじっと張り出された表を見ていた。

「どうした?霧風」
「いえ。ちょっと気になることがあるので、図書館に行ってきます」
「おい?霧風?」
劉鵬の声を背にして、霧風は書庫に向かった。




「…やっぱり」
霧風が難しい顔をして分厚い資料を閉じた。

 夏休み前にはいくつかの忍びの里が連合で大運動会を行う。普通の学校に混ざって学校生活を送っている者も、その卓越した運動能力を好きなだけ使っていいという伸びやかな会なので、どの里もかなり力を入れている。娯楽の少ない里のことだから、毎年大いにもりあがるのだ。
 選手を選ぶのも重要な戦術で、運動能力その他各種の測定が行われるのがこの時期なのである。

 書庫には斜めに夕方の光が差し込んでいた。
ふと人の気配に気がついて霧風は顔をあげる。
中に霧風がいることに気がついたらしい相手は来た扉に戻ろうとしたが、霧風はそれが誰かわかると呼び止めた。


 「小龍」


 相手は一瞬躊躇したようだったが、おとなしく書庫の中に入ってきた。
「人がいると思わなくて」
「いえ。…ちょうどあなたと話がしたいと思っていたところです」
「…俺と?」

言いながら小龍が霧風の手元にある厚い資料に目をやる。
それだけで、少年は霧風が何をいいたいのかをほぼ正確に察した様子だった。

「…これが、わたしたちの学年の体力測定の結果と」
霧風が同じようなもう一冊の資料を取り出す。
「こちらが、あなたたちの学年の測定結果ですね」

「そのみたいだけれど、それが?」
小龍が本棚に寄りかかって霧風をじっと見る。

 いつだか、夕闇の中で自分が風魔の里から出て行くのだと夕日を黙ってみつめていた少年は、身長も伸びて自分とさほど変わらない。

「あんた確か、項羽の学年の人だったよね」
「霧風です」
「…知っている。霧の御仁の所の若様だろ。長距離走の学校記録保持者でもある」
「…やっぱり…」

「やっぱりって、何が言いたいワケ」 小龍の目が鋭く光を持つ。

「あなたは、項羽やわたしたちの記録から数センチかゼロコンマ何秒か劣った記録を、わざと出しているんですね」

「わざとじゃないですよ、霧風先輩。偶然じゃないですか」
小龍が横を向く。

「偶然のわけがないでしょう」
霧風が自分の書き写した記録の表を小龍の前に突きつける。
「あなたが小学校3年生のときからです」
「証拠は?」
「小2の時点で、あなたは項羽の長距離走の記録を抜いている。そのあとの記録があまりに不自然です。」
「そうかな」
「短距離走では項羽より0.2秒、重量系では劉鵬よりも5キロ、長距離にいたってはわたしの記録よりも」
「…10秒」

「馬鹿にしているんですか」

「あんたが怒ることじゃないだろ、別に」
上げた目は明らかに挑戦的な光を帯びていた。
これが、本来の彼の姿だ。
「怒ってなどいません」
「怒ってんじゃねーか」

小龍がやれやれ、と天を仰いだ。
「さすがに今回結果が張り出されるとは思っていなかったからなあ」
「小龍」
「こんな早くバレるとも思っていなかったんだけどな…さすが霧屋敷の御曹司」
「…項羽や羽根屋敷にこのことが伝わると、都合が悪いんじゃないですか」
「…へえ、脅す気?」
「ばらされたく、ないでしょう?」
一瞬小龍の瞳が揺れたことを霧風は見逃さなかった。
この事実が項羽の耳に入ることを、小龍はよしとしないだろう。

「要求は何ですか、霧の若様」

「…次の体育大会で、貴方の本気を見せてください」

「馬鹿みてー、何で俺がそんなことしなくちゃなんねーの」
「見たいからです」
「…ふうん」
小龍が近づき、霧風の手元にあった分厚い資料を取り上げて棚に戻す。
背を向けたまま少し考えていたようだったが、振り返って少し首をかしげる。

「俺だけが本気を出すのってのも面白くないな」
「?」
「あんたも、本気ってのを見せてみろよ」
「何のことですか」

「わかってんだろ」
「……」
「おかげさまで、あんたたちの学年の記録はだいたい頭に入ってる。そこらの体育教師よりも正確にね」
本性を出した小龍に、霧風が息を呑む。これが羽根屋敷の血統か。

「あんたも、長距離の記録、毎年きっかり3秒ずつ上げてきている。計算づくだ」
「…」
「だから、俺の記録のことも感づいたんだろう」
「だったら、なんだっていうんですか」
「それどころか、長距離以外の種目はあきらかに手を抜いているのもあるよな」
「…」
「そのへん、見せてくれるってんなら考えてもいい」

「考えておきましょう」


後に、小龍とまともに会話を交わしたのはそれが初めてだったと霧風は話したが、案の定小龍はいつものように小首を傾げて、そんなことあったっけ、と小さく言って懐かしそうに笑った。





 

 

 



 幼少期からの二人のシリーズ、「その1雪下」「その2白つるばみ」「その3蘇芳(すおう)」に続く「その4萌黄」。萌黄も重ね色目の一つで、夏を表します。
 

 (久しぶりに死ぬほど忙しかった2008年の4月から6月にかけて。20080607UP)


2008/06/07(Sat) 14:21