鰯雲
「送りますよ」
霧風が立ち上がった。
「いいよ、女の子じゃないんだし」
「でも、すぐに暗くなりますから」
季節が変わり、日が落ちるのが急に早くなった。
日没後は急に肌寒い風が里に吹く。
小龍はたまに霧屋敷に夕食を食べに来る。
霧風の母親はもとよりお気に入りの小龍が来ることを心から喜んでいるので、最近では夕食以外でも帰りに立ち寄ることが多くなっていた。今日は家で夕食を食べるからと、夕方には霧屋敷を出たのだが。
「お、夕焼けがすごいな」 小龍が足をとめる。
「…遠回りして帰りましょうか」霧風が思いついて、小龍の手をとった。
「遠回り?」
一瞬、つながれた手から小龍がどうしようかな、と迷ったことが伝わってきたが、霧風はかまわずにそのまま小龍を引っ張って進むことにした。
結局、霧風が促す方向に、小龍も素直についてくる。
高台の西の斜面から、ちょうど日が沈むのが見られるはずだった。
「ああ、やはり思ったとおりだ」
沈む太陽が、雲を染めて、空を鮮やかな朱に染め抜いている。
これが見せたかったんです、と霧風が言うと、手を離して小龍が数歩先の草原に座り込んだ。
「鰯雲だ」
もう少し細かければ鱗雲、大きければ羊雲とでもいうのだろうか。
小さな雲の切れ端が空いっぱいに広がり、小波のように広がっている。
「雲があったほうが、夕焼けが引き立つっていうのも妙なもんだな」
誰に言う様子でもなく、小龍が西の空を見つめる。
晴れ渡った空だと、そのまま紫色になり濃紺の帳が降りてきて、やがて静かな夜の色になっていくだけなのだ。
「…子供のころ、この場所が好きで」
小龍が口を開いた。
「遊び終わって羽根の屋敷に帰る途中で日が落ちるのをよくみていたことがある」
「…そうですか」
「俺が、風魔の里を出されるときにも、こうしてしゃがんで、日が落ちるのを見ていたことがあって」
「ええ」
「誰だったけな、兄貴のクラスメートの一人だったと思うんだけど、見送りに来てくれた人がいて」
「……」
「ちょうど、今の霧風の位置くらいにいて」
あれは何年か前のことで。
まだ霧風より10センチは小柄だった小龍が、泣かないように口をしっかり結んでいたのに、ただ一言、「子供はつまらねえな」とつぶやいた日のことを、霧風は昨日のことのように覚えている。
「…うまく、思い出せないんだけど」
振り向いた小龍の表情は逆光でよくわからなかった。
霧風は自分がどんな顔をしているかわからなかったが、笑顔に似た表情を作っていたと思う。
「あのときも鰯雲だったような気がする」
小龍が霧風の手をとった。
(2005 1012 UPは2008 0420久しぶりのUP.)
鰯雲・鱗雲・鯖雲。
秋ですな。
絹積雲もしくは高積雲。
手をつなぐ二人をかきたかったんだけど、霧風は自分の手が汗ばんでこないかドキドキしていてほしいな!
小龍里子に出されるときのエピソードで、見送った人というのは霧風です。そのSS(「蘇芳」)の続編です。
小龍が里子に出されるという噂をきいて、霧風はいても立ってもいられなくって、ここにいるんじゃないかなと思って駆けつけたのでした。そのころはまだ霧風も幼くて(それほど親しくもなかった)、何も伝えられなかったし、できなかった。
少し大人になった今は、なにかを、伝えられるのかも、しれない。
…などと。
2008/04/20
2008/04/20(Sun) 08:48