白橡 (しろつるばみ) 少年期シリーズの2。 「雪下(ゆきのした)」の続き。
「霧風」
父親がめずらしく呼び止めたので、霧風は長い廊下の途中で足を止めた。
「お前、次の新月の晩は開けておけ」
「…何かあるのですか、父上」
「うむ。羽根の一族で、影の披露目式があるそうだ」
「…影の披露目式?」
「そうだな、少し説明しておこうか。ちょっと部屋に来い」
父親に言われて、霧風は書斎に向かった。
空気はまだピンと張りつめて冷たいものの、早春の日差しが縁側からこぼれている穏やかな一日だった。
父親と差し向かいで話すのは久しぶりで、霧風は我知らず背筋が延びる思いで父親の前に座った。
「で、影の披露目式というのは何ですか、父上」
普通の披露目式なら知っている。昨年、羽根一族の嗣子である項羽が盛大な披露目式を行ったことは記憶に新しい。
「項羽がまた披露目式でも?」
「うむ」
父親は両腕を組んで目を閉じた。
「項羽君とは組が同じそうだが、彼はどうだね」
「どう、と申されましても」
霧風は返答に困った。
「彼とはあまり話をしたことがないので、よく知らない相手を安易に語ることはしたくありません」
慎重な返事をすると、父親は目を細めた。
「まあよい。あれの父親はわしも知っておる。兄の方は父親によく似ておるそうだから、お前とはあまり合わないのだろうな」
「合わない、というわけでは………」
言いながら、霧風は少し赤面した。父親にすべて見透かされているように感じたのだ。
「項羽君に弟がいることは知っているかね、霧風」
「はい」
いつだかの雪の日に見た少年だ。
狭い里の中のことだから、その後も幾度かすれ違った事がある。
「ほう、知っているか」
父親が火のついていないキセルを軽くたたいた。
「どんな子かね」
「目の強い子です。あの学年では一番できる生徒だとも聞いております。実際、頭のいい子のようです」
「ほう」父親が身を乗り出した。「話したことは」
「いえ」
霧風は困って少し首をかしげた。同じ組の項羽に関してあまり語ろうとしなかった自分が、弟の方に関してはすらすらと言葉が出てきたことが自分でも不思議だったのだ。
「なるほど、それでか」
「…と、申されますと、父上」
「ふむ、嗣子に影武者を準備する風習は知っておるか」
「古風な風習だと聞いておりますが……まさか」
「羽根の一族が、弟の方を兄の影として披露目式を行うのだという」
「影とは」
「兄に何かあれば羽根の一族を継がせるという意味だが…」
「項羽に何もなければどうなるのですか」
普通に考えて、項羽の身に何かおこるとは考えづらい。
基本的に彼は何があっても生き残るタイプだ。
「昔のように殺すということもあるまいが…。ただ、お前の言うように、弟御がそれほど優秀なら、今のうちに影として身の程をわきまえさせておく必要があったのかもしれないな」
「身の程とは……」
「年の近い男子が二人以上いると、お家騒動につながることがあるからな」
「……」
「なんだ、心配なのかね」
「今時、影を準備するという話を聞いて、ちょっと驚いているだけです」
「まあ、わしもお前が気に入っているその子を見てから考えよう」
「何をですか」
「いや、羽根のやつが弟の方がいらないというのなら、うちで貰ってもいいかもしれないなと思ってな」
「貰う?」
「不思議なことでもあるまい。昔から霧の一族と羽根の一族は子どもや嫁のやりとりを繰り返しているのだから、めずらしい話ではないぞ」
項羽と遠い親戚にあたるとは聞いたことがあるが、改めて父親から言われると霧風は不思議な気分だった。
とはいえ、父親が男の子をもらいたいと考えている理由に、霧風は心当たりがあった。
昨年末に、霧の一族では、母の年の離れた末の弟が不慮の事故で亡くなり、母親の哀しみがまだ癒えていないのだった。確かに、項羽の弟なら、年格好も同じくらいかもしれない。
「まあ、この話はここまでにしよう。新月の晩は開けておくように。ここで話したことは全て他言無用だ」
「はい」
霧風は深く頭を下げて書斎を後にした。
「よかった、霧風も行くのか」
劉鵬がホッとした声を出した。
「みんな行くものではないのか?」
霧風が聞き返すと、劉鵬は大げさに首を左右に振った。
「うちの屋敷は俺が代表。オヤジは行かないっていうしさ、他の屋敷からもあまり出ないらしいんだよな。さすがに総帥は出ると思うけれど…時間も遅いし、地味な会になるらしいぜ」
「項羽の時は総出だっただろ」
「俺もよくはしらないんだけれど。『影』だからってことらしい」
「…そんなものなのか」
霧風が首をかしげる。
新月の晩がやってきた。
そういえば項羽の披露目式は煌々とした満月の晩だった。
広い玄関の家に通される。羽根の一族は風魔の名門で、風を扱う本陣に継ぐ扱いをされている。
「お、わざわざどうも」
入り口で霧風たちを向かえたのは項羽だった。
「悪いな、こんな時間に呼び出して。俺はいいって言ったんだけどさ、親父がどうしても披露目式をやるって聞かないもんだから」
「…弟さんは?」
「小龍?あいつは奥。今日は一応あいつのお披露目ってことになっているけどな」
弟の名前は小龍というらしい。
「一応、というのは? 違うのか?」
「違わねえよ。…ただ、な」
項羽が視線を落とす。
「こんな地味な会じゃ、やりきれねえってことだ」
確かに、地味な会だった。
開始時刻も遅く、本陣では小次郎が眠たがって途中で眠りはじめ、総帥は中座して小次郎を別室で寝かしつけ、最後には結局竜魔が総帥の席で代理を済ませることになるし、屋敷によっては誰も来ていない。客だけでなく、会そのものが陰気で、暗い会だった。
いつかの少年はずっとうつむいたままで、羽根の家長である父親の退屈な話を黙って聞いている。
「お名前は」
話の切れ間に、霧風の父親が少年に声をかけた。
ようやく顔を上げた少年が答える前に、羽根の御大が代わりに答えた。
「小さい龍と書きまして、小龍と申します」
「ほほう、小さい龍と」
霧の御仁と呼ばれる霧風の父親が柔らかい声を出す。
「いや、項羽に大きな名前をつけてしまいましたからな。弟の方にはそのくらいの名前が丁度よいかと思ったのですわい」
「俺が名前負けするってんですか、父上」
父親の言葉を聞きとがめた項羽が鋭い声をだす。
「そうとは言っておらぬよ、項羽」
「俺はちゃんと、天下を獲りますよ」
傲慢な態度で項羽が挑戦的な言い方をする。
霧風もカチンときたが、本陣の席に座っていた竜魔が鼻で笑った。
「四面楚歌にならなけりゃ、いいがな」
「何だと?」
「いいや、別に」
羽根の御大が弟を連れて客人の前で挨拶をする。
話しているのは父親の方だけで、少年は黙って頭を下げるだけだ。
「髪、切ったの」
目の前に少年が来たとき、思わず霧風は声をかけた。小龍が、顔を上げる。
羽根の御大は霧風の父親と話をしているので、邪魔は入らなかった。
「…前の、長めの髪も好きだったけど」
小龍が髪を切った理由は一目瞭然で、兄と形を似せられるために髪型を変えさせられたのだと思われた。こうしてみると、双子のように二人は似ていた。
というより、正確には似るようにさせられていた。
「短いのも、似合うと思う」
小龍の目が、少しだけ光を戻したような気がした。
真っ黒な瞳に、今夜は月さえ出ていないことを霧風は思う。
それから随分経ってからも、白橡の色を見るたび、霧風はあの日の冷たい廊下を思い出すのだった。
霧風には、冷え冷えとした白橡の色の家に、小龍がいつも一人でいるような印象がいつまでもいつまでもぬぐい去ることができないでいた。
まだ、その気持ちがどんな形をとることになるのかは、霧風さえも少年で、わかりかねたのだけれど。
(2005)
幼少期のちょっと長目シリーズ:「雪の下」の続編。
白橡(しらつるばみ)、これも冬の重ね色目の名称。
赤白橡と青白橡とあるんですが、白橡というのは鈍色(にびいろ)の薄い色のことです。
(up:20060828)
2006/08/28(Mon) 14:40