朝顔

朝顔

 犬は数日前から具合が悪かった。
 発作のたびに体液を吐き出しては苦しそうに痙攣を繰り返していた。

 その犬をかわいがっていたのは弟だ。餌をやり、散歩に連れて行くのは弟の仕事だった。犬自体は兄が父に買ってもらったものだったが、飽きやすい兄は早々に世話が面倒になって気まぐれにしかかわいがろうとしなかったため、犬は弟の方に懐いていた。兄が呼んでも尾を振る程度だったが、弟が呼ぶと心底嬉しそうに飛びかかっては顔じゅうをなめる。お前は弟に甘えすぎるぞと、兄が尾を引っ張っていじめるのでそのたびに弟は真面目な顔で兄に抗議するのは、羽根屋敷の日常だった。



 夜中に項羽が目を覚ますと、やはり犬は苦しげに呼吸をしていた。昨晩から兄弟は犬の近くに夜具を敷いてその側に寝ていたのだが、ここ数日弟はほとんど寝ていないことを項羽は知っている。隣で横になっている弟の様子を見ると、疲れ切った弟はかすかな寝息をたてている様子だった。兄は安心して小さく息をついた。

 兄が犬の背中を撫でると、年老いた犬はうっすらと目を開けた。目は薄く濁っていた。口からは白い涎が泡を吹いている。乾いた布で拭ってやると、犬はかすかに尾を振って答えた。静かな夜だった。夜明けが近いのだと兄は思った。
 唐突に、発作が犬を襲う。兄は自分たちに忠実だった老犬の上にかがみ込み、手足を押さえつけた。こうしないと犬は自分の爪で自分の体をかきむしることがあったのだ。犬の体に何カ所か毛が生えていない場所があるのはすべて犬が自分で自分の体を傷付けた跡だった。右の爪は何かの時にはがれ、炎症を起こしている。弟が毎日薬を塗っているのだが、見ていないうちに嘗めてしまうので、犬の指先は爛れて、腐りかけた赤黒い色をしている。

 ヒューッ、ヒューッと犬の喉から嫌な音が立つ。死はすぐそこまで来ているのに、なかなか彼を連れて行こうとはしないのだった。兄は痙攣を繰り返す犬をいつのまにか忌々しい気持ちで押さえつけていた。瞳が濁ると、人でも他の生き物でも、死が近いと父親から教わったことがある。犬は首を巡らせて、ほんの一時、何かにすがるように兄を見つめた。ふと怯んだ気持ちになって兄が手を緩めた隙に、犬の体は跳ね上がり、堅い板間の上を激しく上下した。ようやく眠った弟がその音で目を覚ましてしまうのではないかという本能的なおそれが兄を襲った。
 次の瞬間、兄は自分の装束の中から毒の塗られた羽根を一本取り出すと、犬の脊髄に正確に打ち付けた。自分でもあきれるほど的確に素早くその作業を彼はやってのけた。小さい痙攣を繰り返し、犬は徐々に力を失っていった。



 兄はしばらく自分のしたことに呆然としていたが、重くなった犬を胸に抱きかかえてそのまま庭に出た。布の上に犬の体を置くと、無言のまま桜の根元に穴を掘り始める。弟に見せてはいけないと思ったのだ。



 すべてを終えて部屋に戻ると、布団の上に正座をして弟が黙って座っていた。東の空が明るくなっている。


 弟は何も言わず座り続けていた。


「朝顔が咲いていた」
そうとだけ言うと、弟は黙ったまま頷いた。



弟は本当にあの老いた犬をかわいがっていたのだ。

  朝顔の色を、今はもう覚えていない。






 (20060224)
 犬の名前はスイ。歴代スイという名前が付けられる羽根屋敷の犬。
 いつもと違う文体でやってみたけど。

 朝顔の花言葉は、愛情の絆 堅い約束 愛着。

 (20060722)



2006/07/22(Sat) 22:05